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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.10)

                  王命を恐れず神を畏れる




彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子が可愛かったのを見て、三ヶ月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、・・・・その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。
                                                                             【出エジプト記2章2~3節】


「世」を恐れず、「神」を畏れる
 今回の記事の主役は、モ-セの母ヨゲベドです。出産経験としては今回のモ-セが、初めての出産ではありませんが、兄アロンと姉ミリアムの時とでは、エジプトの社会(政治)情勢が一変していました。1章の記事にある如く、男子を出産した場合、その赤子は殺処分という、「王命(勅令)」が施行されていたからです。


 にも関わらず彼女は、夫との間に天の「授かりもの」を望み、産むことを決断したのです。彼女の、この無謀とも思える「信仰」を、ヘブル書の筆者は「その子(の表情)が、あまりにも麗しい(可愛い)ので、今まで抱いていた恐れを捨てて、神の御心を畏れることを優先すべく、三か月の間家に隠し通した!」(ヘブル書11章23節)と記しています。


 大抵の人は、この世の「権威」や「決まり事(法律等)」に対して、何らかの恐れを抱き(優先し)ます。この時代の絶対的「権威」の最高基準、それがファラオが印を押した「勅令」です。ですからこの「王命」を遵守しない者は、即「処刑」ないしは重い「懲罰刑」を受けます。へたをしますと、一家郎党「死罪」になる場合もあります。


 ご存知のように、産まれてくる「赤子」が、男子なのか女子なのかは、確率的に1/2です。それ故男子=殺処分、女子=生存可という、常軌を逸した過酷な法律です。この「王命」の真意は、男子の数を減らすこともありますが、最終的にヘブル民族の「母親」が、「殺さなければならないのだったら、産まない方がましだ!」と選択させる、言わば「人口抑制政策」の名のもとに、いずれはヘブル民族の「浄化(根絶)」を目論むものでした。


母ヨゲベドの「祈り」
 このような最悪の状況下にあるにも関わらず、何故ヨゲベドは「男子だったら・・・・」という、「心配」や「恐れ」に呑み込まれなかったでしょうか?果たして何も確信が無いまま、夫の間に子を産むことを決断したのでしょうか?何が彼女の「信仰」を変えたのでしょうか?


 恐らく、他のヘブルの民の母親同様に、彼女の日々の祈りの中に「主なる神よ、このままだと私たちイスラエル人は、エジプト民族によって滅ぼされてしまいます!どうぞ私たちの中に、あなたの救いを現して下さい。そして、いずれはあなたの大いなる御約束を果たすべく、私たちを先祖の土地、即ちあなたの選びの地へと帰還させて下さい!その為に偉大なる指導者を、私たち民族の中に送って下さい。確率が1/2であることを恐れません!あなたの救いのご計画が、エジプトの王を優った次元の中にあることを、私は信じます!どうか、私たちに世を恐れるのではなく、あなたのみを畏れる信仰を増し加えて下さい!」と、激しく祈り求めていたのではないでしょうか。


 そしてモ-セが産まれた瞬間、母ヨゲベドはその子が「余りにも美しい顔立ちである!」という、神の事実を信仰で確認した結果、その子が「男子である!」という現実を捨て去り、神の「ご計画」の中にモ-セの人生を託したのです。実は、ヨゲベドの信仰行動には二つの特徴があり、二つの「死」を神の御心に託していることです。


二つの「死」を捧げる
 さて、今回の記事のキ-ワ-ド、それは「隠す」という行動です。一回目の「隠す」は、出産から三か月間「他人の目」から隠す、つまりモ-セの出生(生存)の事実を、世間の目からカモフラージュすることでした。つまり「第一の死」が、男児であるという理由で始まったが故に、死(生存していない事実)を演出したのです。


 この時のヨゲベドには、「死」の演出が暴露されるのでは?という不安もありましたが、モ-セの顔立ちの中にある、神の「麗しさ」があるのを見るにつけ、神の「守り」の不変性の事実も確認していました。それ故に神に委ね切る!という、確固たる信仰が成長し続け、次の第二の「隠す」行動に踏み切ったのです。


 それはどの赤子にも訪れる、三か月頃に「泣き声」が激しくなる現象(三ヶ月コリック)により始まりました。つまり「(物理的に)もう隠し通せなくなった」から、次はどうするか?という、家族全員の危機迫る事態でした。しかしこの時、ヨゲベドは突拍子も無い、大胆な行動に移りました。つまり彼女は、「神の御手がモ-セの命を握り、常に守っていて下さる限り、神の御心の中にモ-セの命を託します。それ故私は、モ-セを人生(生死)を、あなたの御心に委ねます!」という、究極の信仰選択として、「第二の死」を選択したのです。


 そして彼女が実際に為した行動は、娘(ミリアム)に対して命じた、驚愕すべきプランの実行でした。「一つ籠を編むから、ナイル川に行ってパピルスを刈ってきてちょうだい。」と。母は、いぶかしがる娘を安心させるべく、次のように助言しました。「ミリアム!神が全ての事を相働かせて、必ず益として下さるから、普段通りに持ってきなさい。帰ったら訳を言うからね。」


 さてその晩、母は家族全員に対して説明しました。「時は今なの。神が遂にこの子(モ-セ)を、偉大なるご計画の中に託すよう、私の心に語られたの。みんな驚かないで!今から作る籠の中に、私たちの大切な赤ちゃんを入れて、それをナイル河畔の葦の茂みの中に置くことにするつもりよ。・・・・心配しないで!この子をワニの餌にするためではなく、神の救いの中に捧げるつもりだから。この子は絶対に死なないわ。神の奇跡によって、必ず守られることが分かるはずよ!」と。


 そうです!母ヨゲベドが為した第二の「信仰」の行動は、我が子をナイル川の中に「隠す」ことでした。これはアブラハムが独り子イサクを、神に「生贄」として捧げた行為と同様のものです。当然、これには母親としての葛藤がありました。「これを実行してしまったら、我が子が助かっても、私たちの元から離れてしまう。」などと。


 しかしヨゲベドは、母親として愛情よりも、神の偉大なる「ご計画」を優先することを、モ-セが出生した時から確認していました。「エジプトの圧政からの救いは、神ご自身の御手にあり、まさしく我が子の麗しい顔の中に神の臨在がある!」と。それ故に我が子を、神の御手(今回はファラオの姉の養子)の中に、完全に委ねることが出来たのです。


 即ちイスラエルの「救い」は、自らの「力」で勝ち取るものではなく、神の「ご計画」を信じて、完全に「自分」を捧げきることで、初めて得られることを、彼女は目に見えざる「神の事実」の中に確認したのです。そうです!私たちも、ヨゲベドの「信仰」に見習う必要があります。それは「この世を恐れず、神の偉大なる御心のみを畏れる!」ことです。


 私たちが「今」生かされているのは、自分の「計画」によってではなく、神の「ご計画(摂理)」を通して、母の「胎」の中に命を宿した時から、神の導きと守りを信じて、日々歩み成長するためです。故に、この「神の事実」を信じて、私たちは感謝して生きて参りましょう。


 イエス・キリストという、偉大なる「救い主」が、モ-セの時代と同様に、霊的イスラエル(キリスト者の群れ)の祈りを通して、リバイバル(大収穫)の後に再臨される!いよいよ、そのような激動の時代の中に、私たちは召し出されているのです。


 あなたがヨゲベドの如くに、「神の事実」の中に全てを委ね切り、助け主聖霊様の導きの中で、更に霊的に「信仰」が強められて参りますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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