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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

正しい生き方(No.9)

              死の恐れをしめ出す神の御顔




ヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
                                                                                         【創世記32章31節】


神の「使い」が訪れる時
 ヤコブは何故、神の「使い(神ご自身)」と格闘し続けたのか?その明確な理由が、聖書には何も記されていません。しかし「死」というキ-ワ-ドをもって、今回の記事を深く読み進めていくと、ヤコブの「心」の奥底にある、あるものが見えてきます。つまり彼の「前進」を阻むもの、それが死を伴う「恐れ」でした。


 彼の旅程の「先(前進すると必ず到達する)」にあるもの、それは兄エサウの居留地です。そうです!兄エサウに対する、弟ヤコブの抱くイメ-ジは、「(自分の)死をもって復讐される」ことでした。「引き返したい!」という思いと、「それでも前進しなければ!」という葛藤の中で、待ち構えていたかの如くに出会った謎の人物、それが神の「使い」でした。


 この時ヤコブは、神の「使い」との格闘により、結局は負けてしまう訳ですが、その時に初めて自分と格闘した相手が「何者」であり、その相手が自分を負かしたからと言って、とどめを刺すなどの外傷は、一切負わせること無く、むしろ自分の「葛藤」を吹き飛ばす程の、正しい「生き方」と、自分の正しい「アイデンティティ(名前と生きる目的)」を、わざわざ抱きかかえるようにして、自らお示しになったことに、彼は勇気づけられることになります。


 全てをご存知の主なる神が、自分の顔と真向かいになって、直接「御顔」を近づけられ、次のような励ましの言葉を語りました。「あなたは、私が愛してやまないアブラハムの孫ではないか!如何なる時にも、あなたから離れず、いつもそばに居て守っているのは、この私ではないか!今のあなたの心を支配しているものを、完全に締め出すことの出来る者は、この私だけだ!」と。


 祖父アブラハムの「奇跡話し(シケムの神との出会い)」を、常に父イサクから聞かされていたヤコブは、この時思わず「え?話(言い伝え)が本当なら、俺は既に死んでいるはずだ!神を見た者は、生きてられないんだから。なのに俺は(今)死んでいない。生きているんだ!」と驚愕します。


恐れを締め出す神の「完全な愛」


愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。何故なら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
                                                                                【Ⅰヨハネ書4章18節】


 日本語の「しめ出す」とは、どういう意味を持つのでしょうか?私は当初、この「シメダス」という音声を聞いた時、直感的に「占め出す」とイメージしました。ですから心(或いは霊)の中を、「恐れ」という敵が占領しているが故に、神ご自身が敵と戦い続け、最終的に敵の支配地を奪還し、完全に勝利したことで、一切侵入させない砦を完成する、その砦の名が完全なる「神の愛」と、霊的に解釈していました。


 実際に「しめ出す」を辞書で調べますと、①絞め(紐などで羽交い絞めにして縛り)出すこと(犯人が逮捕された時のイメージ)、②締めて(緩んでいた状態を緊くして元の状態に)戻すこと、③閉め出す(鍵をかけて如何なる侵入も許さない)こと、④占め出す(占領されていた状態・不要物を外部に追い払う)こと、この4つの意味になります。


 ところが、ご存知のように「恐れ」は、中々追い払うことが出来ません。「恐れ」は意識の中に、本人が望まない形で、密かに侵入して来るからです。その中で頻繁に侵入するものが、人との関わり合いから生じるものです。私たちが「ある人を恐れる・・・・」と言った場合、その人の抱く「恐れ」のイメージは、大抵その人の「顔付き(表情)」や「言動(言葉の言い回し、語る態度)」等です。


 ですからヤコブも同様に、兄に対する「恐れ」の出所は、「兄を騙したことに対する、兄の怒り(復讐)に満ちた形相」でした。このような「恐れ」の配下にあるヤコブに対して、主なる神は何故、神の「使い」となって直接介入されたのでしょうか?


 その目的は明瞭(簡単)でした。主なる神が直々に彼と格闘することで、彼の霊の中に巣食う(占領する)、「敵(恐れをもたらす悪霊)」そのものを打ち滅ぼし、「霊」の中から完全に①シメ(締めて絞めて)て、②ダス(占められないよう閉めて追い出す)ためです!そうです!自分の力で「恐れ」と格闘(葛藤)していた、彼の頑なな姿勢を先ずは砕き、神の「救い」の御力に負かす(任す)べく、神ご自身が直々に介入して下さったのです。


顔と顔とを合わせる関係
 ヤコブに訪れた神の「祝福」の最大の事件、それが今回の「ヤボクのレスリング」でした。それは物理的(肉の次元)に見るならば、ハラハラさせる程の「死闘」に写りますが、霊的には神と人との、顔と顔を付き合せる程の「親しき関係」改善でした。


 私たちの人間関係が、作り笑いでもなく、外交儀礼によくある無理した表情ではない、本物の「素顔(ストレ-トな表情)」で、互いの徳の高め合う「会話(交わり)」が為されたら、どんなに霊が癒され、解きほぐれることでしょう!そうです!人と人を親密に関係たらしめるもの、それが「顔」と「顔」を付き合せた、シンプルな「関係(交わり)」です。


 故に主なる神が求める関係は、顔と顔を付き合せる「親しき交わり」です。しかし、現実の私たちの人間関係の殆どが、相手の「顔付き」を気にかける(悪い意味での)ものではないでしょうか。この関係は、真の「癒し(慰め、励まし、徳)」を得ることはなく、むしろ「疲れる」、「ストレスが溜まる」、「無理する」など、相手の「顔」を避ける(無視する)ことになります。


 この時主なる神は、兄の「顔」を恐れ続けるヤコブに対して、「あなたの抱く恐れの全てを引き受ける程に、私は常にあなたを守り導く!その真実の証拠が、まさに今あなたが、この私の顔を見ても生きていることだ!あなたの霊の只中に巣食う、死の恐れの全てを今!私は完全に占め出す。私の完全なる愛の中に留まりなさい!」と、力強い宣言を為されました。


 主なる神の「御顔」を見たヤコブは、その瞬間「そうだ!本来は(神を見て)死ぬべき私に対して、主なる神は死ではなく、何と真実かつ完全な愛をもって生かして下さった。神の御顔は何と麗しいことか。」と悟り、感謝の生贄を捧げるため祭壇を築き、そこを「ペヌエル(神の御顔)」と名付けました。


 人(の顔)を恐れる、私たちの「弱さ」を超えて余りある、主なる神の「御顔」が、「ペヌエル」という霊的取扱いによって、あなたの元にも必ず訪れます。これこそが真実の礼拝です!聖霊様が求めておられる、私たちと神の関係は、常に「御顔」を(私の顔に)真剣に向けるものです。また御子イエス・キリストとの「親しい交わり」を、父なる神の「御顔」を通して、誠実に(誠心誠意をもって)豊かに現すものです。


 私たちの霊的意識の中に働く、人を恐れる意識(心の動き)を、完全に払拭することの出来る力(源)は、御子イエス・キリストの「御顔」だけです!私たちは普段、イエス・キリストの「御顔」を、何かにつけ意識しているでしょうか?私たちの霊的飢え渇きの中に、「イエス・キリストの御顔を、自分の霊の眼で見たい!」と欲する思いが、噴水の如くに湧き上がって来る時に、実は人を恐れる意識が、既に消え去っているのです。


 また父なる神の「御顔」は、「何度でも(我がまま、文句、喧嘩事、苦しみ・悲しみ等の叫びを)言っても構わない(受け入れる)から、どんどん(あなたの重荷を)持って来なさい!言ってくれさえすれば、私はあなたにもっと近づくから。」と、遠慮は全く不要な「真実の関係」に至ります。


 顔と顔を付き合せる「真実の関係」が、あなたの私生活の中においても、豊かに増し加わりますように。そして人を恐れる余り、前進できなくなった時にも、主なる神ご自身が「先」を行かれ、御子イエス・キリストの真実の御顔が豊かに示される時に、父なる神の「完全なる愛」の中で、あなたの歩みが勝利の「御旗」に輝き彩られることを、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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