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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

全き信仰(No.21)

                     リアルな信仰を捧げる
 
 


主は彼に言われた。「私があなたと共にいるから、あなたはミディアン人を、あたかも一人の人を倒すように打ち倒すことが出来る。」彼は言った。「もし御目に適いますなら、あなたが私にお告げになるのだという印を見せて下さい。どうか、私が戻って来るまで、ここを離れないで下さい。供え物を持って来て、御前にお捧げしますから。」主は、「あなたが帰って来るまで、ここにいる。」と言われた。ギデオンは行って、・・・・テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取って、この岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはその通りにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。
                                                                                                          【士師記6章16~21節】
 
 リアルとは?
 英語の「リアル(real)」とは、一般的に現実(実在)性を意味する言葉で、その場に存在する事象や、現実の生々しさを表現する言葉です。例えば液晶テレビの「画像」に関しては、目に見えてくる事象ですから、その「リアルさ」は、画素数(ハビジョンや4K)によって変わります。しかし「サウンド(音響、音質)」に関しては、耳に聞こえてくるもの、つまり目に見えない「情報」であっても、人は両方の耳(器官)をもって、その「音」を立体的にキャッチすることで、「リアルさ」を認知できます。
 
 このように「リアル」とは、まさしく目の前に存在するものとして、感じ取ることが出来ること(もの)!と、私たちは把握しています。では私たちの「信仰」を見られる主なる神は、私たちの信仰の「何」を、実際に見たい!と欲しておられるのでしょうか?見せかけの「生贄」ではなく、「霊」の中に働く意思、つまり私たちが「如何なる思いをもって、神を求めているのか?」など、そのような目に見えざる信仰を、神は正しく見定めようとしておられるのです。
 
神の「助け」が臨む時
 さて、ギデオンに対して語られた、今回の神の使いの「言葉」から、信仰の奥義を学んで参りましょう。この時点において彼は、神の「言葉」を未だ、「リアル」に捉えることが出来ませんでした。「私一人で何が出来るというのでしょうか!」などと。「私があなたと共にいるから、あなたはミディアン人を、あたかも一人の人を倒すように打ち倒すことが出来る。」(16節)この御言葉の中にある、「私があなたと共にいる」とは、直訳で「私が必ずあなたを助ける」となります。この神の使いが言う「助ける」とは、如何なる場合においても、あなたを片時も見放すこと無く、助け主を遣わすことによって、御手をもって神が共に働くことを意味します。
 
 この御言葉から学ぶべき第一の奥義は、「助け」には必ず、実感が伴ってくるという点です。つまり実際に「助ける」とは、意識と行動(目配り、気配りなど五感の働き)の面において、研ぎ澄まされた感覚(感性)が要求されます。では「助け」を受ける側にとって、「助け手」が本当に実際面での「助け」の働きを為しているか否か?その実感を得るには、目に見えざる領域にある、「助け手」から醸し出される「リアルさ」、つまり「助け手」の持つ強い意思(真実の言葉)と、暖かい手の温もりや力強い「支え」、そのようなものではないでしょうか!
 
 ギデオンは、神の使いの力強い「真実の言葉」を聞いた時、大いなる「励まし」の助け(助言)を戴きました。続いて神の使いは、更に彼に対して「あなたに実際的な軍事力を与えてしまったら、あなたは私の言葉を忘れる位に、敵に向かって突進して行くことでしょう。しかし私が助けるが故に、あたかも一人が敵を打ち負かすような、神の驚くべき出来事を、あなたは為すことが出来る!」と、信じられない「言葉」も語りました。
 
神が与える「リアルの法則」
 私たちは例えば、「一人対数万人」の戦さという数式を示されたら、それは「有り得ない(既に勝負にならない)!」と計算します。つまり目に見える数字の「リアルさ」に負ける(と判断する)からです。ところが神の使いは、ギデオンに念を押すかのように「私が助けるから・・・・」と語っています。その「答え(結果)」が「一人(ギデオン)」である!という点です。ギデオンは、この神の言葉の中に「一を超えて余りある、おびただしい神の軍勢が、私たちと共に働く時に、神の圧倒的な大勝利を掴むことが出来る!」ことを、「霊の眼」をもって見出したのです。
 
 私たちは、とかく「自分の力(技量、力量)」を、ベース(基準点)にして計算します。そして自分の「力」が不足する場合に、「主よ、どうか助けて下さい!」と願い出ます。ところが主なる神の法則(霊的手順)は、私たちのとは異なります。聖霊様は必ず、弱いと思う私たちに対して「あなたはゼロに等しい者である。しかし、私があなたと共に働く時、それは大いなる勝利を、既に約束したことを意味するのです。それ故あなたは、全く恐れる必要はありません!」と励まして下さいます。
 
 「信仰」を働かせたギデオンは、神の使いに対して「もし御目に適いますなら、あなたが私にお告げになるのだという印を見せて下さい。」(17節)と要求しました。直訳するなら「もしあなたが、私のこと(私の信仰)をお気に召すのであれば、私に幾つかの証拠を示して下さい!その証拠とは、あなたがまさしくリアルな方、即ち真の主なる神でいらっしゃることです。」となります。ギデオンのこの言葉の中に、「信仰」から生み出される強い確信が現れ出ています。
 
リアルな信仰を捧げる
 ギデオンは神の使いに対して、更に要求しました。「どうか、私が戻って来るまで、ここを離れないで下さい。」(18節)と。私たちは自分の「思い」を優先するあまり、神の「御心」から意図的に離れる訳ではないのですが、様々な方面へと自分の「霊」が、勝手に出かけることが多々あります。大抵「その時」には、神の「御心」に留まり続けることを忘れています。しかしギデオンの場合は、「私は絶対に、ここから離れません。ここに神の御心がありますから。ここに献げ物を持って参ります。」と言って、用意していた「献げ物」を携え、祭壇上に奉納したのです。
 
 神の使いは、すぐさま祭壇(岩)に杖を差し伸べ、それら全てを瞬時に焼き尽くしました。その瞬間に、神の使いも消え去りました。この不思議な出来事の中に、今回示される神の第二の奥義があります。即ち神が与える「リアル」とは、目に見える次元(事象)を瞬時に、目に見えざる領域へと移すこと、これこそが神の「リアルさ」の証拠であることを、ギデオンに示したのです。
 
 ギデオンの「信仰」は、リアルさを求めて止まないものであり、如何なる状況の中にあっても、「あなたが真の生きた神であるなら、必ず御声をもって臨んで下さり、その御声(命の言葉)は、神の御心の時にしたがって、必ずその通りになる!ですから、あなたからリアルな証拠を掴み取るまでは、私はあなたの側から絶対に離れません!」という、ある面でイエス・キリストの御衣に、後ろから近付いてそっと触れた、あの長血を患った婦人の「信仰」と同様のものです。
 
 それは神の御側近くにあって、常に(四六時中)離れずに、激しく求めて止まない飢え渇きです。その「信仰」を突き動かすもの、それが「リアルさ」です。(あなたのことを)もっと更に、そして豊かに(証拠を)示して下さい!と祈り求める姿勢です。その祈りは、神の豊かな「救い」の現れ、そして私たちに対する豊かな「祝福」の数々、神との「交わり」から得られる、豊かな愛に溢れた神の「御目」を、まさしく自分の「霊の眼」で捉え、その唇から流れ出る麗しい「命の言葉」を、「霊の耳」で実際に聞くことが出来るように!と、常に「花婿」を恋焦がれる、花嫁の激しい「パッション(情熱)」でもあります。
 
 この大いなる神の出来事の後、ギデオンはいよいよ、神の「霊」に満たされて、来る「戦い」の準備に勤しむことになります。私たちの生活の大半を占めているエネルギー、例えば「電子」や「光の波」、そして「音の波」などは、私たちの「肉眼」で捉えることの出来ない、つまり目に見えざる物質(存在)です。このように私たちが、目に見えない物質の恩恵の中で、様々に生活を成り立たせているのと同様に、私たちキリスト者は見えざる神を信じて、霊の次元にあるものを求めながら生活しています。
 
 私たちが何故「見えざる神」を、真の神として受け留めることが出来るのか、それは私たちの「霊」なるものが、「見えざる神」を欲して止まないからです。つまり「もっと更に、リアルな神との交わりの中に入りたい!」と、激しく飢え渇き続けるからです。ですから、もっともっと主なる神を求めて下さい!イエス・キリストの「御声」と「御顔」を求めることに始まり、聖霊様の麗しい「臨在(神の覆い)」に、常に支配されることを祈り求めましょう!
 
 あなたがギデオンの如くに、常に「リアルな信仰」を、日々の祈りと礼拝の中で、聖霊様の指示に従いながら、喜んで捧げ尽くすことが出来ますよう、主イエス・キリストの聖名で祝福してお祈りします。アーメン!


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