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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

復活の福音(No.9)

                           命の活力の源



エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
                                                                                                        【Ⅰ列王記17章1~6節】


「命の言葉」が臨むとは?
  ご存知のように私たち生き物(生命体)は、「水」と様々な「栄養エネルギー」を、日々体内に取り込まなければ、生きていくことが出来ません。そこで今回は、「命」を保持するエネルギーとは、如何なるものであるのか?この点について考慮しながら、今回のストーリーから示される、「復活の福音」の奥義について学んで参りましょう。


 「本来の人」であるアダム(エバ)は、「罪」を犯す以前において、今の私たちと違って、明らかな生命体としての特徴がありました。それは「不死」であったという点です。覚えて戴きたいことは、彼らを含めて、あらゆる万物の「命」の源(出生の始まり)は、父なる神から発せられる、「命の言葉」によって生じているという点です。父なる神の「命の言葉」に、「無」から「有」を産み出す力があり、永遠の命から永遠の命に至る、即ち「死」という言葉が存在しない、不滅の状態の中で、父なる神は万物を創造されました。


 ところが、ローマ書8章に記述されているように、私たちは彼らの犯した「罪」故に、生命体としての「死」が始まり、「霊」も死の病に侵されることになりました。しかし今回のエリヤと同様に、父なる神の「命の言葉」が、私たちの上に聖霊を通して臨まれる時に、私たちの「霊」は死の状態から贖い出され、再び生きるようになる!これが神の「復活の力」です!そういう意味で、エリヤに働かれる父なる神の数々の御業は、イエス・キリストの「復活」の雛形を象徴しています。それ故私たちは、エリヤに働かれる聖霊様の働きを、幼子の如くに飢え渇き始め、父なる神の御業に期待して、「命の言葉」に聞き従う時、エリヤ同様に神の「命の言葉」が、私たちの「霊」に激しく臨み、そしてイエス・キリストによる「復活」の御業が、私たちの現実生活の中に豊かに実現(成就)することを、是非信じて下さい!


エリヤに臨んだ「神の言葉」
主の言葉がエリヤに臨んだ。」(2節)という出来事(神の事実)は、聖書に記述されている信仰者、例えばアブラハムやモーセの「霊」に語りかけた、父なる神の「ご命令」とは、現象としては若干異なっています。それは主なる神の「命の言葉」が、圧倒的な霊的現象として、まるで大雨(夕立)が、突然降り出すかの如くに、彼の「霊」に降り注いで来たのです。しかもそれは、イキナリの出来事でした・・・・考えるイトマも無い程に。


さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
                                                                                                   【マタイ福音書4章1~4節】


 エリヤが今回体験した霊的取扱いは、実は私たちの信仰生活においても、度々経験することです。ある面で私たちは、「この世」という霊的荒れ野(砂漠)に生きています。そしてある時には、現実生活においても経済的に、困窮生活を強いられたり、霊的に信仰が打ちのめされたりするなど、まさしく砂漠の中で干からびる状態にまで、様々に取扱われることがあります。そして「その時」に、サタンが近付いてきて囁きます。「あなたの信仰を働かせて、今の現実の状況に命じなさい!奇跡が起きるように!と」しかし聖霊様もアドバイスします。「神の命の言葉を、ひたすら待ち望みなさい!」と。


 エリヤは待ち望みました。すると「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。私は烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(3~4節)という、驚くべき(人の常識では、とても信じることの出来ない)内容の「ご命令」が、主なる神から発せられました。エリヤはこの時、如何なる「思い」で神の「命の言葉」を、最後まで聞いていたのでしょうか?「え!確かに、モーセに率いられたイスラエルの民は、あなたが日々降らして下さるマナと、時折運んで下さるうずらの肉をもって、生き永らえることが出来ました。なのにこの私には、どうして烏が運ぶものなのですか?」などの、不信感を覚えたはずです。


 しかしエリヤは、5節に記述されているように、イエス・キリストと同じく、直ちに信仰の行動に移っているのです。即ち「人はパンのみにて生くるにあらず。主なる神が語られる命の言葉によって、霊的な糧と上よりの大いなる力を受け、そして永遠から永遠に至る、神の恵みの中で生き永らえることが出来る!」という信仰です。それ故エリヤは、神の言葉が臨む時には、必ずその「御言葉」を実現ならしめる、父なる神の「導き」と「御力」が、同時に注がれることを、この時素直に受け留め従順したのです。


「命の言葉」の真実性
 私たちが信仰の歩みを為す中で、仮に「道が開かれない!」、「天の窓が、未だ開かれない!」、「道を途中で見失う」などの、信仰の試練(破船)に遭遇する時に、私たちは如何なる信仰姿勢にあるべきでしょうか?そしてこの時のエリヤ同様に、主なる神の「命の言葉」が、私たちの「霊」に臨もうとする時、実はサタンの攻撃により、上よりの神の「命の言葉」を妨げるかの如くに、自分の内側(肉)から「己の言葉」が、次々と生まれることをご存知でしょうか?ところが主なる神は、そのような愚かな私たちを聖めるべく、いつも一方的に取扱われ、霊的な荒野においてこの肉の法則を、徹底的に打ち砕かれるのです。そして、私たちが霊的に打ち砕かれた後、ようやく上より神の「命の言葉」が、聖霊によって激しく臨むのです。


 神の「命の言葉」には、必ず真実性が伴います。「真実性」とは、偽りが全く無い状態(有様)を意味します。神の「命の言葉」は、偽りが全く無い故に、必ず実現ならしめるという、偉大なる御業を呼び起こすものです。私たち「人」は、父なる神が直接語られた、「命の言葉」の息吹をもって創造されました。ならば私たちの人生も、神の「命の言葉」によって少しずつ完成され、最終的には「永遠の命」という、不滅の命を現す神の「命の言葉」によって、私たちの「命」が完成(成就)されることを信じましょう!


 そうです!私たちが乳飲子(幼子)の如くに、神の「命の言葉」に聞き従う時に、その「人」は必ず生き始めるのです。父なる神は、ご自身が発せられた「命の言葉」を決して違えること無く、その「人」を生き永らえさせ、そしてその「人」が証言した「言葉」を通して、次々と「新しい命」を産み出す、即ち神の「命の言葉」を受け継ぐ民(真のキリスト者)を興し、神の「恵み」が拡大して行くのです。私たちは常に、神の「命の御霊の法則」を忘れること事無く、聖霊様に期待しましょう!


 私たちの「真の牧者(イエス・キリスト)」は、私たちが「この世」において、必要なものの「全て」をご存知ばかりでなく、私たちの「霊」が欲する生きる、霊的飢え渇きを取扱いながら、私たちに生きる「活力」を、必ず与えて(注いで)下さる方です。はっきり申し上げて、私たちが「肉の法則」で生き抜くことは、無理なことです。しかし、あなたに神の「命の言葉」が臨む時、あなたが思いにも寄らなかった次元の中で、「全て」のことが相働きて、父なる神の「命の言葉」が、まさしく本当である(神の事実をもたらす)!」と、明確に証言できる者でありますよう、主イエス・キリストの御名で祝福しお祈りします。アーメン!


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