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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

キリストの家族(No.23)

                地境を動かしてはならない!



あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地で、すなわちあなたが受け継ぐ嗣業の土地で、最初の人々が定めたあなたの隣人との地境を動かしてはならない。
                                                                                                               【申命記19章14節】


地境を動かすとは・・・・
 今回の御言葉を箴言の著者は、より詳しく説明しています。「昔からの地境を移してはならない。孤児の畑を侵してはならない。彼らを贖う神は強く、彼らに代わってあなたと争うであろう。」(箴言23章10~11節)


 先祖が定めた、あなたと隣人との間にある「地境」とは、霊的には何を意味しているのでしょうか?私たちは「地境」を、物理的に「ボーダーライン(国境線)」などの、土地(国土)を仕切る境界線として把握しています。そして、私たち人間は非常に愚かな行為ですが、少しでも「自分の領土(土地)」が拡大されることを願って、スキあらば隣人との地境を乗り越えて、相手の土地を占有しようとする、「貪欲(むさぼり)」があるのです。


 当時のイスラエル民族も、部族間の「土地」を巡る紛争事件に対処すべく、専門の役人(長老)の立会いの下に、測り綱をもって「地境(ライン)」を設定し、数尺毎に「石杭」を打ち込むなどの、いわゆる「線引き」を行いました。この時に重要となるもの、それが「石の杭(Stone-stake)」です。この「石杭」を、ある者が勝手に掘り起こして、別の場所に動かして打ち据えた時に、「土地」を巡る争い事が起きる訳です。ですから今回の「御言葉(神の命令)」は、単純に要約するならば、「石を動かしてはならない!」というイメージで把握して下さい!その理由は、「争い」を避けるためばかりではなく、全ての民が神の「祝福の法則」から、決して逸脱することが無いようにするためです。


 実は私たちの霊のフィールドにも、父なる神が定めておられる、霊的な「地境」があることをご存知でしょうか?父なる神は、私たちの霊のフィールドの中心に、「聖なる石」を置き据えています。私たちはその「聖なる石」が、「イエス・キリスト」であることを当然知っていますので、「え!?私は霊的な要石である、イエス・キリストを動かしたりしませんよ!」と反論することでしょう。ところが、私たちはあの十二弟子たち同様に、揺れ動く「葦」のような存在なのです。


「聖なる石」をわきへ動かすこと


イエスが言われた。「それでは、あなた方は私を何者だの言うのか。」シモン・ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを話したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。・・・・」・・・・この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、・・・・多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、諌め始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」・・・・「私に付いて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」
                                                                                                 【マタイ福音書16章15~節】


 仮に私たちが、この時の弟子たちと同様の状況に置かれていたとしたら、私たちは揺れ動く葦ペテロの如くに、イエス・キリストに対して、自分本意の言葉を主張しているかも知れません。この時のペテロは、弟子たちの中でリーダー格であり、師イエス・キリストに対して、堂々と主張できる人物でした。最初彼は、「イエス様、あなたこそ生ける神の御子、真の救い主です!」と大胆に告白しました。イエス・キリストは、このペテロの告白を聞いて、大いに励まされた訳ですが、ペテロの唇を通して語られた言葉は、「人間ペテロ」が言ったものではなく、聖霊が彼の「唇」を借りて、父なる神の言葉を直々に届けたものであることを悟ったのです。


 イエス・キリストは、「人の子」でもありましたから、ペテロの「告白」を聞いて、彼に対してすぐに返答しました。「私の愛する友ペテロよ、あなたはとても素晴らしいことを言ってくれた。私はこの堅固な岩の上に、必ず生ける神の教会を建て上げます!」と。それを聞いたペテロは、自分こそが弟子の中で、「第一人者」と自負していましたから、「ついに先生は、私のことをお認めになり、近い将来先生が建国されるであろう、ユダヤ国家の中において、先生が王として自分のことを、ユダヤ教の長(大祭司)として任命されるのだ!」などと、イエス・キリストの語った預言を、自分流に(岩とは自分のことである!と)解釈したはずです。「そのためには、自分の命を投げ打ってでも、革命を成功させるぞ!」などと、自分の「手の業」を拡大させることに、ペテロは情熱を傾けて行きます。ところがイエス・キリストは、そんな彼らの態度をご存知であった訳ですが、最終的には自分が「十字架」上で屠られる、贖いの子羊(生贄)であることを、彼らに告げられました。勿論「死んで終わりではなく、必ず復活した後に聖霊を通して、神の国の事業が拡大していく!」ことも語った訳ですが・・・・。


 イエス・キリストが、「私は死ぬ!」と語られた瞬間に、全ての弟子たちが「え!?そんな事があったら大変だ!」と困惑し、この時もペテロが即「ちょっと待って下さい、先生。それは困ります。」と諌めながら、師イエス・キリストを「わきへお連れし」(22節)たと、マタイは記述しています。この「わきへお連れする」とは、実は地境を「移す」言葉と、同じ動詞(move)を使用しています。「自分の手の業」、「自分の計画」、「自分のミニストリー」、「自分の願い(ビジョン)」などが、イエス・キリストの「御言葉」と一致しない場合に、私たちは「ちょっと待って下さい!」と言い訳しながら、イエス・キリストという「石標(Stone-stake)」を、わきに動かそうとするのです。


 するとイエス・キリストは、ペテロに対して「退がれ、サタン!」と、本人にとってみれば非常にショックを覚える程の、強烈な言葉を発せられました。覚えて下さい!私たちは、この時のペテロよりも愚かな存在です!実は私たちも、いとも簡単に自分の「霊」に据えられた、「石の杭(イエス・キリスト)」を移して、例えば「私の計画(my-stone)をここに置きますから、後はあなたが押し拡げて下さい!」と告白する、愚かな存在なのです。イエス・キリストという「石杭」を、故意にわきへ移すこと、これははっきり申し上げて「呪い」の始まりです。


 サタンは常に、私たちの「霊のフィールド」の中に、ぶどう畑を荒す狐の如くに侵入して、例えば「私は、あなたの計画の中に、神の栄光を建て上げたい!」などの、「汚れた思い」を吹き込みます。しかし助け主なる聖霊様は、「その時」に働かれます。「あなたではない!」と。イエス・キリストは確かに、ペテロに対して叱りつけるように、「退がれ、サタン!」と命じましたが、これはペテロ本人に対して叱った言葉ではなく、ペテロの「霊」を荒しまわるサタンに対して、直接命じた言葉です。その証拠にイエス・キリストは、その後すぐに「あなたは神のことを思わず、人のこと(サタンの計画)」を思っている。あなたの霊の中にある、このサタン的な思いの全てよ、完全に出て行け!」と命じました。その瞬間にペテロは、再び「霊の眼」が目覚めたことでしょう。


「イエス・キリスト」に留まる
 イエス・キリストは、ペテロ及び弟子たちの気が落ち着いた後で、最後に次のように語られました。「私に付いて行きたいと思う者は、自分を捨てなさい!自分の手に大事に掴んでいる、あなたのエゴから来る全ての思い(意思、欲)」を、全て放棄しなさい!私という真の生ける石(地境)を、あなたの霊の中心に据えない限り、あなたは自分の意思(my-stone)を大事に手に掴んだまま、最終的にはそのエゴによって、霊が滅ぼされるであろう。自分の十字架を負って、先ず私に従って来なさい!自分の命を救いたいと思う者は、それを失うことになるが、私のために命を捧げ尽くす者は、新たな命(永遠の命)を得るであろう。」と。この言葉は弟子たちにとって、非常に意味不明の内容でした。彼ら同様に、例えば「私の思い、私の祈り願っているビジョンや計画、それら全てを失ったら、主よ!あなたのために、私は何をしたらよいのですか?あなたのために働くという、私の願いが無くなったとしたら、私には何が出来るというのですか?」などと、殆どのキリスト者が戸惑うことでしょう。


 しかし覚えて戴きたいことは、私たちがいつも、「イエス・キリスト」の中に留まる(つながる)という、霊的イメージの中には「私的な思い(感情、意思)」が殆ど無い、つまりイエス・キリストの「御心」と一体化する(覆われる)ということ、これが重要です。それは大いなる神の「救い」の次元の中に、私たちはあずからせて戴いている!という、「小さな私」のイメージなのです。父なる神は、私たちがペテロの如くに、霊的に貧弱な愚かな存在であることをご存知です。それ故に、「無償でイエス・キリスト(真の神の宮)の中に住まわせますから、その中にずっと留まり続けなさい!そうすれば、あなたが頑張らなくても、イエス・キリストを通して、神の麗しい事業が拡大していくのです。」と、私たちの中にある「私的思い」を聖められます。そうです!私たちは無理に「自分」を頑張らせること無く、単純に「イエス・キリスト」の中に留まればよいのです。


 「地境」を移してはならない!と命じられた父なる神は、神が据えて下さった「地境(イエス・キリスト)」、即ちこの聖なる状態(フィールド)の中に、常に留まることを意味しています。ですから私たちが、イエス・キリストという「石標(Stone-stake)」に立つ(堅く据えられる)限り、私たちは安心して神の「祝福の法則」にあずかることが出来るのです。私たちが「何か」を為すのではなく、私たちは「イエス・キリスト」の中に、常に住み続ける(留まる)ことによって、私たちの中にある「私の意思」を、聖霊様が霊的に細かく砕いて下さり、聖なるフィールドの中に隠して下さることを信じて下さい!私たちの「霊」の中にある聖なるフィールドに、聖霊様がイエス・キリストという、堅固なる「礎石(要石)」を据え続けて下さり、私たちがその中に留まらせて戴くという、父なる神の「恵み」の中で生きることが出来るよう、主イエス・キリストの御名でお祈りします。アーメン!


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