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命と心の健やかなる成長のために!
こんにちわ!
あなたの命と心は、いつも健康ですか?それとも、何かの問題で病んでいますか?
私たちは、そんなあなたの、命と心の健康に気を配り、また命の処方箋を、聖書の「命の言葉」から提供します。

生ける聖霊の働き(No.26)

                「神の宮」から流れ出る水




彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。彼は私を北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。
                                                                                                 【エゼキエル書47章1~2節】


エゼキエルの見た啓示
 エゼキエルは、この「夢」と「幻」の預言的啓示の中において、聖霊様(神の使い)を通して「神の宮」に導かれました。そして、彼の見たこの「神の宮」の麗しさは、ソロモン王が建築した神殿よりも遥かに優った、神の「栄光」に満ち溢れた最高の「神の美」でした。それはもしかしたら、天上に用意される至聖所(御国の神殿)を覆う、神の「美」を象徴するものだったのではないかと、私は推測しています。


 エゼキエルはこの「夢」と「幻」の中で、聖霊様から「神の宮」に関する様々な説明を受けながら、神殿の中へと誘われて行きます。「彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。」(1節)と記述されているように、聖霊様はエゼキエルを、実際に「神の宮」の入口まで引導しました。「入口」とは、英語で「Entrance」と言いますが、彼が実際に導かれた「神の宮」の入口は、只一つしか存在しませんでした(勿論「入口」が「出口」にもなっている訳ですが)。「神の宮」は、私たちが霊的に死す場所です。それ故他の「出口」は必要ありません!つまり「神の宮」に入るということは、神との「親しい交わり」の中にあずかり、神と完全に一体化される訳ですから、出る必要がないのです。


 恐らく、エゼキエルは「夢」と「幻」の中で、最初は他の場所に存在していたのですが、再び彼が「神の宮」の入口に立ち返るよう、聖霊様は彼を連れ戻しました。このことは非常に重要な奥義を、私たちに教え示しています。私たちの信仰の歩みの中には、一番重要かつ聖なる務め(召し)である、「至聖所の交わり」をないがしろにして、例えば「私は様々なことに挑戦してみたい!これも神の栄光につながるはずだから・・・・」などと、他の出口(行いと業)を捜し求める傾向にあります。しかし聖霊様は、「否、あなたは常に、神の宮の入口に行きなさい!そこにおいて、あなたは完全に死ぬ(捧げ尽くす)のです。このことを通さなければ、あなたの霊の只中に用意される、神の宮の完全な栄光は現れ出ません。それ故あなたは、常に入口に行くのです!」と、私たちを真の「入口」に招いて下さるのです。


エゼキエルの神殿図
 「神の宮」はイスラエルの歴史において、「モーセの幕屋」に引き続き「ダビテの幕屋」へと変遷し、実際に建造物として建築されたのは、ソロモン王の治世の時です。いわゆるソロモン王の神殿は、神が示された設計図通りに建立された訳ですが、それによると「正門」は、東(側)の方向に位置しています。「東」はご存知のように、「日(太陽)」の昇る方向ですから、至聖所の位置は、それとは逆の方向である「西」、つまり日の沈む方向に位置します。そして「北」と「南」の各位置にも、「門(出入口)」があります。


 「神殿」の敷地を取り囲むようにして、側壁がそびえ立っていますが、「東門(正門)」を通り抜け三つある階段を上り、神殿の建物の中に入りますと、最初の部屋が先ず目に飛び込んできます。この最初のエリアを「聖所」と呼びます。そして、この「聖所」の奥深くへと更に進み行き、突き当たる次のエリアが「至聖所」です。又、「神殿」の建物の外側にある広いフィールドを「外庭」と呼び、この広い外庭において、イスラエルの民は「祭儀」の様子を、外側から待機して伺う訳です。実はこの「外庭」の地下奥深くには、延々と流れる「地下水」が存在し、七千万トンもの水量の流れが、豊かに流れ続けていたのです。しかしこの地下水は、今まで地上に溢れ出すことはありませんでした。


 それ故、父なる神は「夢」と「幻」の中で、神の国のフォームをエゼキエルに現す(教える)べく、彼を霊的な「神の宮」の正門に導きました。暫くすると「正門」の敷居の下部から、大量の「水」が溢れ流れていることが分り、彼は思わずその不思議な光景に目が釘付けになり、そして驚愕したのです。「え!?神殿の中には、地下水を汲み上げる井戸は、一つも無かったはずだが・・・・。聖霊様、どうして水が流れているのですか?」と。その流れ行き着く先を見ていると、「正門」に向かって流れ続ける豊かな「水」が、「正門」を昇る三つの階段を下って、外庭へと拡散していました。


 そして彼は、更に聖霊様に促され神殿を一周しますと、神殿の中から溢れ出る「水」が、何と南壁の一部を破壊して、壁の下側(基礎部)を突き破りながら、神殿の外側に流れ出ているではありませんか!そしてこの不思議な「湧き水」は、至聖所の祭壇から尽きること無く、溢れ流れ出ていました。余りにも大量の「湧き水」が、次から次へと湧き溢れ出ていることから、「神の宮」という巨大なプールを形造る前に、流出する水の「水圧」によって、南壁の下部が決壊したものと推測できます。何故「南壁」だけから大量の湧き水が溢れ出たのか?実に不思議な出来事です。ちなみに現在のエルサレムにある、神殿の一部として残っている「嘆きの壁」は、実はこの「南壁」に当たります。


二種類の「命の水」の流れ
 聖霊様は何故エゼキエルに対して、「神の宮」の預言的啓示を、このような「湧き水」の不思議な流れ(方向)のイメージとして、先ず示されたのでしょうか?私たちは、この点について霊的に正しく把握する時に、実は今の時代に聖霊様が起こそうとしている、不思議な「救い」の御業(ご計画)を「知る」ことが出来ます。


 ところで「命の水」という言葉は、一般的に英語では「Living-Water」と言いますが、「Water of Life」という別の表現もあります。文字通りそれは、「命」の源である「水」という意味ですが、四季を通じて豊かな「雨水」に恵まれた私たち日本人にとって、「Water of Life」の概念は分りにくい言葉です。ししかし「雨期」と「乾期」という、季節が明確に分かれた中東地域の住民にとって、「水」の存在は彼らの「命」を左右する、重要(貴重)な宝物になります。ですから彼らの日常の会話の中には、「私は今、喉が渇いています。どうか水を飲ませて下さい!」と、ストレートに「水」を求める表現があります。そして旅人(客人)には、必ず最初に「水」をもって出迎え、旅の疲れを癒す風習が自然に為されています。ところが、家畜に関しては一頭当たり○○円と、飲水の代金を支払うように請求されます。


 以上から「命の水」とは、まさしく自分の生活(生命)に関わる、本当に貴重なものである!ということが分ります。この章で示されている「命の水」は、大きく二種類に分類されます。先ず第一の「命の水」は、「命」を与える水のことです。前述したように、それは具体的に「井戸水(地下水)」や「泉(オアシス)」などを指し、私たちの渇きを潤し、活力を再び与えるものです。即ち、私たちの「霊」ばかりでなく、全ての生体組織(肉体)に「力(エネルギー)」を与え、再び「命」をみなぎらせる下からの「水」です。


 それに対して、第二の「命の水」は上からの「水」、つまり「天の水」のことを指し、具体的には「天」から降り注がれる、「雨水(雪も含む)」のことです。「Living-Water」がこれに相当します。この「天の水」は、実際に流動して生き(活動し)ている水です。ご存知のように「天」から降り注がれた「水」は、川となって海へ流入し、再び水蒸気となって「天」に帰るという、不変のサイクル活動を展開しています。つまり「Living-Water」とは常に動き巡り、そして生きて(活動して)いる「水」です。勿論この「天の水」も、人の「霊」を生かす水であり、私たちに対して更なる飢え渇きを起こさせるもの、例えば「もっと更に前進しなさい!」、「もっと近付いて来なさい!」、「もっと飲み続けなさい!」などと、具体的に活力ある霊的行動(spiritual action)を促進するものです。


 エゼキエルが「夢」と「幻」の中で見た、神殿から突然に溢れ流れ出た「命の水」は、果たして何処から流出してきたのでしょうか?それとも、神の大いなる不思議な力によって、「天」から降り注がれたもの、つまり上からの「水」だったのでしょうか?ヤコブ書には、「良い贈物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」(ヤコブ書1・17)と記述されていますが、聖霊を通して私たちが召されている方向性、即ち霊的回復(再建)という素晴らしい変革を受けるためには、私たちが聖霊様の導きを通して、霊的に備える(建て上げられる)べき手順(行程)があるということを、私たちは霊的に「知る(学ばされる)」べきです!また、聖霊様が用意される様々な霊的成長レベルの中で、私たちがどのように整えられ、変革されていったらよいのか?その奥義を、エゼキエルが霊的に体験したのと同様の流れの中で、私たちもレベルアップして行くべきです!


 私たちは今まで、エゼキエル47章に関して言えば、「聖霊のバプテスマ」という一つの霊的体験の奥義として、この章を学んで(教えられて)きました。しかし、それは決して「異言」を伴う、一つの霊的体験として受け留めるべきではありません。あなたはもっと更に、エゼキエルが体験したのと同規模の、圧倒的に変革された人生を過ごしたい!と望まないでしょうか?私たちが望みも期待もしていないのに、そして願い求めていないのに、一方的に父なる神が天から「命の水」を降り注ぐ時に、私たちの「霊」の只中から、スカルの女性が掴む(霊的に飲む)ことが出来たのと同様の「命の水」が、豊かに自分の人生に突然溢れ流れ出るという経験を、私たちは飢え渇き求めないでしょうか?そのためには、私たちの霊的成長レベルに応じて、如何なる霊的取扱いを聖霊に求めるべきか?この点についてエゼキエル47章から、私たちは霊的に正しく学ぶ必要があるのです。


 下からの「水」と上からの「水」には、それぞれ特徴があります。先ず下からの「水」は①溢れ出るもの、そして②流れ出るもの、最終的には流れ出た「水」が③様々なものを創造する(潤し力を与える)ものである、このような三つの特徴(動き)を持っています。それに対して上(天)からの「水」は①降り注ぎ流れるもの、そして②満たすもの、最終的に③地を(洪水を起こす規模となって)覆い尽くすという、三つの主要な働きを特徴とします。例えば、「大河」を形成することの出来る最大要因となる水は、「天」の雨水だけです。ですから「泉」などの下からの「水」も、本来(起因)は上からの「水」が地に降り注がれることで、初めて生れ出るものです。「Living-Water」に関する、以上の各三ポイント(下からの水→①溢れ②流れ③創造する、上からの水→①注ぐ②満たす③覆う)を、私たちが確実に把握していれば、聖書に記述されている「命の水」の奥義を、正しく解釈することが可能になります。


 日本の稲作農業において、伝統的に「水利権」などのトラブルが度々起こりますが、下からの「水」である井戸や泉は、非常に有限で価値あるものです。つまり苦労して掘り当てた「井戸水」を、赤の他人に対してコップ一杯程度ならまだしも、無代価で大量の水を与える日本人はいません。現に上水道の価格設定は、地方自治体の水道局が主に管理しています。では、上からの「水」である雨水や雪に関しては、代価を例えば気象庁が「昨日の降雨量は、○○地方で約百ヘクトパスカルの雨量でしたから、○○地方の各自治体は、気象庁に1トン当たり100円の換算で、上水道税をお支払い下さい!」などとは請求しないはずです。ですから「命の水」に関して、次の原則を常に覚えておいて下さい!天から降り注がれる命の水は、無代価で与えられるものである!即ち、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」(黙示録22章17節)の御言葉に記されている「命の水」は、まさしく求める者に降り注がれる天の「Living-Water」です!


 聖霊を通して注がれる天からの「命の水」を、私たちが授かる(霊的に飲む)時に、エゼキエルが見た預言的啓示の如くに、私たちの霊的フィールドの「南壁」を打ち破り、私たちの全てを覆い尽くすほどの、素晴らしい神の「ご計画」が始まることを、是非信仰をもって期待して下さい!当時の神殿の残虚と言われる「嘆きの壁」において、今でもイエス・キリストを「救い主」と認めない、ユダヤ人の多くが「涙の祈り」を神に捧げています。彼らに使徒行伝の時と同じように、「天」から聖霊の降臨が起きたとしたら、「その時」から彼らは「南壁」に行くことを止めるでしょう。


 そして次からは、無代価で「命の水」を与えて下さる方、即ちイエス・キリストご自身を求めることで、小さな至聖所である自分の「霊」の只中に、霊と真による「真の礼拝」の場が、聖霊によって再建されることでしょう。私たちにも、自分の中にある「南壁」を打ち破るほどの新しい変革の御業が、霊的フィールドにおいて推し進められることを期待して下さい!上からの聖霊の「力」をもって祈る時に、私たちの三次元的思考で思いも付かないほどの、つまりエゼキエルが見た預言的啓示のような、麗しい「命の水」の流れが始まることを、主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン!


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